投稿者「熊井」のアーカイブ

2015年11月1日0:00無事百歳通過





88歳で脳梗塞を2回起こし。とうとう終わったかと思いました。左半身麻痺と右半身麻痺となりましたが、統合医療実践で本日ただ今何とか100歳を超えました。今のところ自分でトイレに行き、支えられながらもデーサービスに行けています。

神功皇后伝説その④日本古代医学の原点




若戸大橋の下にある神社で洞海湾のすぐそばにあることが分かります。




若松恵比寿神社に来ました。これも若松区に30年ばかり住んで初めて来ました。昔、恵比寿市場や大黒市場には良く来ていました。市場の名前がおめでたい名前で変わっているなと思っていました。今神功皇后がらみと知ってからはありうる名前です。


昔、遠賀川は遠賀潟であり海でした。洞海湾もドン詰まりではなく遠賀川に江川に沿って繋がっていました。昔は八幡区と若松区は別れており、若松は二島と言うところもあり、神功皇后が井戸の表面を鏡としてお化粧をしたという井戸もあります。八幡という地名はもろに(はちまん)であり、倭人すなわち海人の神様です。神功皇后の軍事拠点および住居は岡田宮辺りか、わが熊井温泉近くの神崎町かであったと思います。ここから、三韓征伐や熊襲征伐、征伐と言っても実際は戦略経済的互恵関係を構築したと言うほうが正確かもしれません。また瀬戸内海に入り近畿方面か山口から日本海を通り若狭湾から近江、滋賀に行っていたと思います。あるいは来ていたか。いずれにせよ神功皇后は長く北部九州にいました。




洞海湾を進行中、神功皇后の船が動かなくなったので、船頭を海底に潜らせたところ光る石を発見し、この地に祭らせる。そしてそこに若い松を植えたところから若松と呼ばれるようになりました。

今に及ぶ神功皇后の足跡神功皇后ほどこの日本の各地において伝承を持つ人はいません。母方を新羅に持つせいかそれとも戦後の反省からか神功皇后は天皇の系列からはずされました。架空の人物と言う人がいますが、それでは私のすんでいる若松や熊井温泉近くの神崎神社も無い事になってしまいます。先日行った佐賀の嬉野温泉も無い事になります。嬉野温泉に神功皇后が入って「あなうれしいのう」と言ったことから嬉の温泉と呼ばれるようになりました。神功皇后を無き者にして今の日本はありません。4世紀後半神功皇后は日本においてまるでキリストが現れたような絶大な人気があったと考えられます。私はそれは武人ではなく救世主のようなものだったと思います。

神功皇后と石神功皇后には石に関する話がとても多くあります。

月延石や鎮懐石:お腹に石を3個さらしで巻き、出産を遅らせたとされる

馬蹄石(ばていいし):神功皇后が乗った馬のひずめの跡のついた石

腰掛石:神功皇后が腰掛けた石はすぐ祭られる山口、福岡、佐賀、長崎、大分、宮崎などに3000箇所以上

東風石:壱岐の島で船を走らせる追い風が吹くように祈願すると、祈りが通じて割れた石

光り輝く玉の霊石:仲哀天皇の熊襲親征に従った神功皇后は洞海湾を進んだ。船が進まなくなったので漁夫に命じ海底を調べると、光る石を見つけた。この石は神功皇后を守る霊石とした

腰掛石:神功皇后はこの石の上で「あな、わびし」と言った事から
わびしがたびしとなって旅石と言われている

その他
神功皇后の馬蹄石や神功皇后が髪をといた髪櫛石
三石神社:神功皇后が朝鮮遠征の帰りに和田岬の田の中に三個の石を置いて祈り広田、生田、長田の三神を祭った。さらにそこで安産や健康を祈願した。


水と石との関係今「水が変われば人生が変わる」と言う本を書こうとしています。水はエネルギーを貯めることができ、情報を記憶することができます。私達の体は60%が水でできています。その水のエネルギーや情報のよしあしで病気や健康が決まるのです。しかし神功皇后のことを考えていると、今や私は石に強い関心があります。熊井温泉の地下には花崗岩があり、県下一のラドン温泉なので花崗岩の中にはラジウムを多く含みます。マサ土すなわち赤土は花崗岩が風化して鉄分が残ったものです。花崗岩はさまざまなミネラルを含みラジウム放射線、自らは崩壊しラドンとなり地下水に溶けアルファ線(高エネルギー電離放射線)を出します。花崗岩はさらに4~14マイクロの生育光線と言われる遠赤外線を出しています。鉄分を含みわずか磁力線もあり、その岩石の亀裂を地球の重力によるエネルギーで地下水がすごい勢いで流れています。地下水は磁力線、放射線そして遠赤外線を受けます。そして結果的にあらゆる自然の力を記憶した高エネルギーの地下水となるのです。ラドン温泉といえば皆、放射性希ガスとしてのラドンのホルミシス効果のことを言いますが、酸化還元電位も低くエネルギーが高く人体に活力を与えてくれるのです。ですから水が変われば運命が変わるのです。しかしながら、その主な源は実は岩石であると言うことです。




温泉水の方お花は早く咲き始めて遅く残る。そして匂いも色も強い




温泉水にいれた釘は何時まで経っても錆びない


本日驚いたことに何んと10年近く経っても変わらず、しかも蓋まで錆びていない!


表層に出ているラジウム花崗岩。地下にはもっと強いのがあると考えられます。

宇宙は波動でできている。すべての物質にはエネルギーがあり振動数があります。また情報を伝達する性質もあります。心療内科的に言えば「心身一如」宗教的に言えば「色心不二」、量子力学で言えば「MC2」です。見える世界と見えない世界。分子より細かい原子や素粒子、素粒子よりさらに細かくなると紐になります。ヒモ理論は弦です。弦は音です。神事の神楽は巫女にあの世への道を誘導する方法です。音楽と色は振動数を代表するものです。これらを使うことにより肉体以外の世界に通じることができるのです。

急用にて・・・つづく


高橋信次(その③メシアの主治医)祝!!10万アクセスPV22万


信次先生入門上級編、左が宇宙と魂の仕組み、右が悟りの方法(心のあり方)が書かれた本です。なくしたらもう手に入らないと思います


ブルーベリーの甘酸っぱい味は、寂しい秋の始まりを感じさせます








今年はブルーベリーが豊作でした。ブルベリージャムを作って、蜂の巣ケーキ(子供がアトピーだった頃、ケーキが食べられないので、そのために作っていたケーキ)にこれをつけると最高に美味しい

東京から鳥取へ信次先生に3月に研修会があるから参加しませんかと誘われましたが、大学の医局人事で出向病院に行かなくてはならなかったので参加することができませんでした。そこは恐怖の病院で1ヶ月の間に受け持ち患者が二桁死亡するという病院でした。医師になって2年目に入ったばかりの私には、心理的には宗教の研修会どころではありませんでした。

死亡患者ゼロ外来患者は昼の3時まで、病棟勤務は10時までの厳しい職場、お金が無くて腎透析ができない患者に腹膜透析で夜12時過ぎまでお腹に水を出し入れ、夜中に交通事故の縫合を3時間というときもありました。夜間救急では医師も救急隊員も区別なく診察し入院のときは、自ら患者を担架に乗せて運ぶ、細い山道や田んぼ道を下るときは腕がしびれて患者を落とすのではないかというくらいのきつさでした。そんな状況でしたが何んと死亡ゼロで任務が過ぎました。

 前任の友人が出張を怖がる私を見て「お前はいい。がり勉で勉強しているから。俺は勉強しなかったので大変だった」と慰めてくれましたが、確かに良く勉強していたのは良かったと思いました。高橋信次のパワーアップもあったかもしれませんが、宗教活動よりやはり今はしっかりとした医学研修をするべきと思いました。人の命が懸かっているので、実際それどころではありませんでした。


メシア高橋信次死すしかしながら、病院から解放されて安心するや、また東京へ行くことを考え東京のGLAの友人に電話しました。「え!お前知らないの!!信次先生なくなったよ!」一瞬時が止まりましたが、信次先生は自分自身のずっと前からの予言どおりに、やはり48歳で亡くなったのです。私が会った死亡する2ヶ月ほど前のときは、私に八起きビル2階のテナント病院の医師になりなさいと言われていたので、まさか死亡するとは思っていませんでした。顔色が良く肌ツヤがとても綺麗に見えたのは、今から考えるに彼の肉体ではなく光子体を見ていたのかもしれません。

万歳三唱私は電話が終わった後、官舎の外にでて夜空を見つめ山に向かって、「バンザーイ、バンザーイ、バンザーイ」と大きな声で万歳三唱しました。私は彼の死を悼むというよりは、彼が亡くなる前のしかも入院していたときのたまたま外泊時に2日にかけて個人指導を受ける幸運に恵まれたのです。早く信次先生に会いなさいという霊友の言葉を聴きながらも長く彼に会うのを遠慮していた私にとっては、本当にぎりぎりセーフという感じだっのです。自分自身にとってはまさに万歳物の出来事だったのです。

 ガンで早く死んだ父もそうでしたが、祖父母が敬虔なクリスチャンで家には聖書関係の書類が多くありました。私も聖書は一通り読みましたが、イエスの奇跡を私自身の目で確かめないと聖書に書かれてあることは信じられないというのが実感でした。しかし信次先生の文証、理証、現証と彼自身との奇跡の遭遇から全身全霊を持って、見えない世界がありそれが本当の世界であることを確信したのです。私の人生は大きく変容し、ある面そこで終わったのです。


下のユーチューブの講演は多分なくなられる前の熊本の講演ではないかと思いますが、これを聞くと信次先生の医学に深い思いが生じたことが分かります。



メシアの主治医信次先生がなくなって東京に行ったときに、私の話を聞いた信次先生を診ていた療術師が、一緒に信次先生の自宅に行こうと言い出しました。私達は霊前に供えようと浅草のりを買い自宅を訪れました。奥様が対応されましたが、そこには信次先生の面影もなく、さすが信次先生がなくなったようには感じられないさばさばした感じでした。

 療術師が「旅に出ようと思います」と言うと「出られたらよいと思います」という返事でした。私の「信次先生は自分の関係した病院を紹介する言われていましたが、その病院をご存じないですか」と聞くと「私には知りません」という返事でした。二人とも信次先生にお参りすることもなくおいとまし帰りました。お互い話しませんでしたが、思いは同じでした。心の中で「奇跡の時と人は終わったんだ」と思いながら、トボトボと帰って行きました。

 信次先生が生きていれば、やがては八起ビル2階で開業し、メシアの主治医になったかも知れません。信次先生は療術が好きであまり西洋医学的治療はされてなかったのではないかと思いました。私が主治医なら本日、国と県と市から100歳表彰された母のように長生きさせることができたかもしれません。もしそうだったら、それが光か暗黒か分かりませんが、私はとんでもない医者になったかもしれません。






神功皇后伝説その③日本の古代医学の謎を解く鎮懐石


これは温泉水の自販機の横にいる掲示板に張っている説明書の一つです。


帆柱石郷土研究家で校長先生であった筒井氏が書いた古門の歴史書によると、熊井温泉近辺(古門)に神功皇后の軍艦の帆柱が石になった帆柱石というのがあったらしい。おおよそ10メーターなのでかなりでかい船だったことが分かります。後で述べるが神功皇后は石に関する話がとても多い。あるとき自販機の温泉水を汲みに来たお客がお腹にラジウム石らしきものを巻いていて、腕にも石のリングがあり、彼がこの文章を読んで「ラドン温泉なら神功皇后が出てきても可笑しくない」と家内に言ったとの事であります。私は神功皇后については良く知っているつもりでしたが、鎮懐石については恥ずかしくも知りませんでした。早速インターネットで神功皇后と石についてググリました。鎮懐石は月延石とも言って神功皇后が三韓征伐のときに石を腹に巻いて出産を遅らせ、勝利して韓国から帰り15ヵ月後に応神天皇を生んだという話です。首輪や腕輪は分かりますが、妊婦が何キロかの石を腹にまいて戦うことは考えられません。しかし身の回りか船室に石を置いていたことは十分考えられます。また神功皇后が神との交信にその石が必要だったからかもしれません。また妊婦である自分の精神的なイライラ等の体調を整えるために、自販機を汲みに来たお客が腹に巻いているような石を使っていたのかもしれません。彼はそのことを想像し、ここにはラドン温泉があるからラジウム石もあると考えたのでしょう。

脅威なる洞窟の石の力丁度その頃、長崎から漢方治療のためある患者さんが来ました。洞窟浴に泊まりたいと言うので、ムカデに噛まれても知りませんよというと「自分はテント一つで世界を回った」というので許可しました。「明朝色々検査しますが、あなた相当悪いと思いますよ」と予言して明日の朝診療することにしました。プライバシーのため詳しく書けませんが、何んと早朝の診察では、彼の症状および理学検査がすでに治っていたのです。これには患者も私も驚いたというところで取り合えず終わります。

 全身性尋常性乾癬そんなことで、温泉水を汲みに来た鎮懐石の男性と、他県からの患者さんの件と、インターネットの検索で、99才の母親の部屋に洞窟の石を3個持って行きました。と言うのは母親の足にあった尋常性乾癬が全身性となり、痒くてたまらず大学病院の皮膚科に入院させることにしていました。皮膚科学会で受診できず1週間後に受診の予定でしたが、石の効果を期待してラジウム放射線のできるだけ強いのを選りすぐり母親の周りに置きました。そしたら何んとか、ゆいかゆいと裸にまでなって訴えていた症状が消えたのです。1週間後には実際にかゆみも皮疹も改善しました。今では足に少し残して毎日の軟膏塗りも終了しました。









入院予定前に、全身に広がった尋常性乾癬、下の写真は1週間後


まず主病変の炎症が鎮火







せなかの赤みも取れる

ラドン洞窟の石を3個置いた1週間後の様子






なるべくラジウム放射線の強いのを選んで母親のベットの下におきました。


この強烈そうな石を部屋の真ん中に置きました。母親はこれを「お石様」と呼んでいます。>

お石(医師)様皮膚科医も専門医もダメ、もちろん私にも治せない。ステロイドも漢方もダメ。結局お石様が治してくれました。今でも主病変の足の皮膚炎はありますが、もはや全身にかゆみはありません。神功皇后は鎮懐石を身につけました。彼女の髪につけている櫛は石櫛です。薬石無効という言葉がありますが、それはクスリや石が効かないということです。この場合の石は石針です。古代医学では針灸の針は石針だったのです。要するに石には人間の気の流れを調節する力があるのです。薬と言えば皆さん飲みたがりますが、服薬という意味は薬を飲むことではありません。それは本来、薬を服につけるもしくは身に付けるという事なのです。漢字は紀元前に作られました。ですから紀元前の古代医学では薬石を身につけたり身の回りにおいて治療していたことから、服薬という言葉が生まれたと考えるのは不自然ではありません。

それでは次回最終章でグローバルな女王、神医、神功皇后が4世紀に滋賀、北部九州を中心に東は関東、西は帯方郡までを何故制覇することが出来たかを日本の古代医学の観点から述べてゆきたいと思います。





神功皇后伝説その②神崎町と神崎神社




お盆になり子供たちもふるさとに帰り、墓掃除と墓参り、家の祖先は浄土真宗と内村鑑三はのキリスタン。熊井家は秀吉の九州攻めにあい滅ぼされたキリスタン大名末裔。しかし祖父母は農業の関係もあって、「神を愛し人を愛し土を愛する」という内村鑑三の思想に感化されキリスト教になっています。


しかし私はどちらかと言うと今は神道に興味があります。何故かというと故郷鞍手が古代日本の伝説に満ち満ちているからです。この写真は古物神社の入り口にある猿田彦の看板石。猿田彦は天照大神の降臨に際してニニギノミコトを道案内した神様です。古物神社の祭神は天照大御神、日本武尊、仲哀天皇、スサノオの命、神功皇后、ミヤズ姫神、応神天皇、布留御魂神ですが、猿田彦の名前が至る所にあります。猿田彦は道案内の神様ですから全国に有るでしょうが、身体が大きくて天狗のように鼻が高く赤顔の猿のような様相だったということです。十氏族の末裔ではという想像はやや飛躍か?!
 また鞍手から3号線の赤間に出る山道の名が猿田峠といい古物神社の上の山を越えたところにあります。この古物神社はここ熊井温泉から500メートルくらいの近いところに有りますので、ちいさい頃からいつもここに行って、祈ったり相撲をしたりしていました。


1キロ先の神崎神社いつも古物神社行っていましたが、すぐ近くに神崎神社という神功皇后を祭っている神社があるのを知らず、65年目にして始めて訪れました。神崎町が神功皇后に関連した町であることは知っていましたが、ここもあらためて訪れました。と言ってもここは2回目ですが。いつも隣村なのによそ者が来た!という感じで町民に見られます。それほどここを訪れる歴史家もいませんし、町民も自分達の町に神宮皇后がいたという自覚はないようです。











まずは去年神崎町を訪れたときの紹介です。特に地元の人がお参りしている様子はありませんでしたが、比較的綺麗にしてありました。タイトルは皇母地蔵菩薩と書いてありました。反対読みなのでかなり古くからあったのでしょうが皇母が応神天皇の母、神功皇后であることは間違いありません。この時も神崎神社に行こうとしたのですが、結局分からず引き返したました。今年は地図を確認して神社の裏口から行くことにし、簡単に行くことができました。。














大体これが裏から入ったコースですが、神社の周りには大きな泉が二つもあります。中は鬱蒼としており少し不気味です。ふくろうが鳴いたときはびっくりしました。昔熊井農園でもふくろうやキツツキがいましたが、開墾していなくなりました。とにかく驚いたことは「広い!大きい!」に尽きます。古物神社よりはるか何倍も大きい。杉が茂っているので大きくは見えませんが、管理されていればとても大きいと思います。大昔は大神社であったに違いありません。まさに神功皇后を彷彿とさせます。しかし今では管理するものがいないらしく、古物神社の宮司が時々来るようです。

石を祭るどんな宗教も祭神というのがあります。キリスト教であればイエスかマリア。仏教であれば釈迦か観音様等々です。神道は色々ですが、古神道では太陽や月もしくは大木や石などの自然崇拝です。神崎神社も神功皇后、仲哀天皇、応神天皇等々書かれていました。しかし、周りに4つほどの祠がありましたが、みな石を祭っていました。あたりには無造作に古い石がたくさんありました。











不思議な文字or絵。?誰か読める人がいたら内容を教えてください


木月、上木月そして古月古神道ではほとんど自然崇拝であったのではないでしょうか。太陽と月と星と言えば占星術を思い残しますが、昔この神崎村の北に木月と上(神?)木月村があり、西に私達の古月村があるのです。月は陰陽で言えば陰を表し女性もしくは母をあらわします。太陽は文字通り陽で男性です。これから考えてもここ鞍手町の文明はきわめて古く、神功皇后がいたのはほぼ間違いありません。特に軍事地点の要所として神功皇后がいたのです。


神宮皇后伝説、その①神功皇后上陸地点(古門、神崎説)


福岡県鞍手郡鞍手町古門。熊井温泉のあるところです。地図は西暦3世紀ごろの地図で、クリックしてもらえば現在の地図に変わります。青の線は神功皇后が自分の軍艦から降りて掛津(かけず)を通り、古門を通り自分の在所神崎町に行った経路を描いています。神崎町の近くには大きな神崎神社があります。神功皇后伝説 in 福岡福岡県には神功皇后にまつわる話がとても多い。私のふるさとの家すなわち熊井温泉から700メートルくらいの所に「梶屋ヶ崎」という地名があって神宮皇后専用の軍艦の梶を掛けていたと言われている。本来なら舵という漢字だろうが万葉集には梶という言葉が出てくる。梶掛けと言う言葉もある。昔は梶は木で作られていたので、軍艦が長期に停留する場合は、当時の精密機器の大事な梶は腐らないように船から外され、手入れされ何かに掛けられていたのではないかと考える。なぜ私が梶と掛けると言う言葉にこだわるかと言うと、この梶屋ヶ崎のある町全体は掛津(かけず)と言われていて、あたりが海だった頃は比較的深い海に突き出す半島のようになっていたのである。すなわち沢山の梶が掛けられた掛津と呼ばれていた半島には実に多くの軍艦が停留していたのではないかと考えている。  一方、熊井温泉のところ古門も「島内(しまうち)」と今でも呼ばれている(海が深い)。その南側は浪打(波内)とも呼ばれて、それより南は多くの貝塚地帯で遠浅になっている(海が浅い)。これに対して島内から東北側、すなわち梶屋ヶ崎側は深い海になり遠賀川河口や洞海湾出口(昔は)につながっている。私が考えるに、ここ掛津半島から神功皇后が三韓征伐(?)や熊襲征伐に旅立った可能性が極めて高いと思うのである。古門の北の虫生津から上陸したと言う説もあるが、虫と言うのは蟹のことで、渡り蟹が沢山生息していたと言うことであり、渡り蟹の生息水深は浅いのでここに軍艦が留められるはずはないと考える。また神功皇后在所からも遠い。

高橋信次(その②奇跡は愛の力から)祝!!10万アクセスPV22万

背中に火傷終了後しばらくは信次先生と話ましたが、君は近年ドイツとオランダで医師として転生しているので、自信を持って医療にに従事するようにと、もっぱら私に自身を付けさせるような事を言ってくれました。48歳で自分は死ぬと昔から公言していたが、彼は今48歳。しかし彼の顔の肌は光り輝いて綺麗で、とても死をまじかにした皮膚ではありませんでした。私はそのときすでに川崎の百合丘の救急病院で診療していた経験から、一番に患者の顔色すなわちその顔の皮膚を見ればその患者さんがいつ死にそうか分かるようになっていました。その皮膚を一番に見て病状を判断する癖が付いていたのです。その後事務局の友人と喫茶店に行きその感動をお互いしばし話した後、私は夕方巣鴨のカイロで電気治療を予約していたので、山手線です巣鴨に向かいました。
 そこの治療所では結構効果があったので、私は電気治療の脊髄通電を時々受けていたのですが、いつもの電圧なのに背中が熱く痛く担当者に電流が強いようなので、電圧を落とすように頼みました。それでも熱いので、「もっと電流落として!」と怒ったように言うと相手も「いや!これで最低です。これ以上下げられません。」とぶっきらぼうに答えました。その後ホテルに帰って、風呂上りに何かまた背中がヒリヒリするので鏡で見てみると、私の背中全体が真っ赤になっていました。信次先生のパワーですでに治り、身体は赤ちゃんのように健康だったのです。


身体の病と憑依(魂身一体)心療内科では心身一如(しんしんいちじょ)と言う言葉があります。それは心と身体は二つで一つ分けがたいと言うことです。あるいは西洋医学的には心身相関と言います。心と身体は相互関係の下に流動的であるということです。心療内科での治療では、自分の症状が肉体の病気ではなく、心が原因で起こっていることがあると言うことに気が付けば、半分は治療できたようなものです。しかしそれは誰でも分かるのですが、自分のこととなると結構難しいことなのです。しかしそれができると病気の真の原因の精神療法が功を奏して病気が治ってくるのです。薬も検査も良いのですが、心の治療ができない限り根本的には病気は治らないと言うことです。もちろん心療内科や精神科ではそこまで立ち入りませんが、肉体に弱点が生じるとそこに憑依が起こりやすくなります。目に見える肉体以外に、ヨガで言うところのエーテル体やアストラル体といった量子力学的な肉体があってそこを通して憑依されます。もちろん精神のバランスがよくこれらの第二次三次肉体が健全であれば、肉体の局所が病んでいても憑依ができなくなりますが、逆に精神いや魂と言ったほうが良いかもしれませんが、魂に不調和があれば局所の憑依が起こりやすくなり、肉体的症状はますます悪くなってきます。逆に環境汚染などにより肉体全体が悪くなっても魂が病むということが起こってきます。ですから本当は「魂身一体]というのが真実なのです。



自宅のイチジク。




自宅のびわも豊作です。


庭に植えたクコも勢いが良い


ニュウドウ草も花も咲き取り時です。






農園の梅も収穫時期です。


桑の実も沢山なっています。クワの葉はαグルコシダーゼを阻害し糖の吸収を防ぎ糖尿病のクスリとなる。根には血圧効果作用があります。枇杷の種や梅の種はビタミン17があり、アミグダリンはアメリカではガンのレトリール治療で使われます。ニュウドウ草はご存知のように毒消し毒だしです。でも漢方では中薬なので長く多量には飲まないほうが良いでしょう。クコは実も葉も根も薬効がありますが、上薬で滋養強壮としても長く飲めます。


信次先生との2日目信次先生に会うことができた喜びの反面、私は自分が憑依されていたことにガッカリしましたが、しかしそのときすでに先に述べたように理解していたので、たとえ信次先生が憑依を取ってくれたとしても、まだ心根が変わっていないのでまた憑いてくるだろうし、自分で法を実践し精神がバランスを取り戻せば自分でとることが可能だし、それが自力信仰というものだと考え、あまり動揺はしませんでした。
 
 次の帰る日にまた八起ビルに行きました。講演テープでも買って帰ろうと思っていたのです。事務所に上がると友人はいませんでしたが、何んとまた信次先生が来ていました。私はもうこれ以上貴重な信次先生の時間をととってはいけないと思い、なぜか上の階への階段を一人で上って行きました。そうしたら何んと今度は信次先生のほうが私を追いかけて階段を上ってきました。私は信次先生に誘われるままソファーに二人で対座して座りました。
 「今どこで泊まっているの」
 [浅草です」
 「それなら、ここで泊まんなよ。寝るところは一杯あるからどこでも良いよ」と言いながら彼の視線が私の後ろに動いた。
そのフロワーは書斎のようで会議室のようで、奥行きがあり広々としていたが誰も人がいなかった。
そんな気さくな会話から始まり緊張感も無く、いまや50万人の信者を持つ教祖と言う感じも無く、イエス釈迦モーゼの上のエルランティとはとても感じられなかった。
 「今度3月の研修会に出ませんか」
 「大学から公立病に出向することになってるので参加できません」と残念そうに言うと、
 「そうですか、今ここのビルの2Fにテナントでおじいちゃん先生が開業していますが、その後是非ここに入ってくれませんか」
信次先生が今年48歳で自分が死ぬと予言されていたが、そんな会話の内容で、あたかもそれは悪い冗談だったという思いでした。
 「今すぐという分けに行かないなら、私の知っている病院に紹介するから、それまでそこにいて下さい」
私はそれに答える間もなくはやる心で信次先生に問いかけた。
 「私はどれくらい修行をしたら先生のように病気を霊視して治すことが出来るようになりますか」ときいた。
 「あと6年。胃カメラしなくてもカラーで胃の中が見れるようになるよ」と微笑みながら答えた。
 「出向から帰ってきましたら、また上京します」と私も答えた。
そんな冗談のような話が続いた後私は信次先生と分かれて事務局に戻り予定の講演テープを買いかえろうとしました。
帰りに出口でまた信次先生に会ったので、
 「今日は有難うございました」と会釈すると
 「うん、遠慮しないでね」と言う一言が返ってきただけであった。
しかしそれも私には画期的な一言でした。私が長い間信次先生に会う事を遠慮して迷っていたからです。彼はその心を私の守護霊に聞いていたか、見通していたのです。私にはその思いやり言葉のほうが信次先生の病気を治したり金を吐き出したり台風を動かしたりするような数々の奇跡より優れた奇跡の力と感動しました。ほんとの奇跡は愛の力が無ければならないのだと悟りました。
 話は少しそれますが、信次先生の神戸市での講演会の日、瀬戸内海を通って大きな台風が神戸を直撃してきました。こんな場合は台風を信次先生が吹き飛ばすと聞いていたので、興味を持ってみていました。まさか大きな自然現象を変える力までは無いだろうと追っていましたが、何んと神戸市の手前で中国地方に逆戻りしてしまいました。その代わり中国地方で6人の死者が出て複雑な気持ちにはなりましたが、
 

つづく

高橋信次(その①伝説の宗教家との遭遇)祝!!10万アクセスPV22万




私が35年以上肌身離さず持ち歩いています。しかしすでに暗記しているのでよむことはないのですが。。。表紙には”心経”の「祈願文と書いてあると思います。


知る人ぞ知る伝説の宗教家”高橋信次”


高橋信次を絶賛する精神科医医師会誌の投稿である病院の院長で、比較的高齢の精神科医が高橋信次のことを絶賛していましたので、私は「彼はきっと信次先生に会ったことがあるに違いない!」と思いました。と言うのは高橋信次のことは会ったことのある人でないと決して分からないからです。私は去年の12月の医師会の忘年会では、その精神科医に会って高橋信次のことを話すのを楽しみにしていました。
 
 そこで忘年会のときに早速彼と信次先生のいきさつを聞いたところ「自分はあった事はない。ただ彼の教えがとても素晴らしいと思ったので医師会誌に投稿しました」とのことでした。さすが一流のベテラン精神科医ともなるとその真髄が彼に会わなくても理解できたのでしょう。


誰も知らない私の真実すでに今年の1月に10万アクセス(すでに11万超えました)を超えていたので”祝10万アクセス”のタイトルで特別なことを書こうと思いつつ6月になってしまいました。しかし、1ヶ月に1回アップするかしないかの日記ブログにかくも多くの人がアクセスしてくれたことに感謝して、特別なことを頑張って書きたいと思います。

話の内容が奇妙で、正面から話すととても分かりにくい話ですので、きわめて簡略化したドキュメンタリー風に書きたいと思います


久しぶりの東京医局の人事で地方の病院に出向する前に数日の休日が取れたので、私は米子から伯備線に乗り岡山で新幹線に乗り換えて東京に向かった。まだ東京を離れてそんなに経ってはいなかったのであるが、久しぶりの東京のような気がした。山陰が田舎過ぎるのか東京が都会過ぎるのか何か大きなずれを感じる。それだけに新鮮だ。
 私はいくつかの用事をした後、浅草の八起(やおき)ビルに向かった。当時のGLAの本部である。川崎の病院で働いていたときにGLAの研修会で友人になった友達がGLAの事務局で働いていたので、彼に会ってその後のGLAの様子などを聞こうと思ったのである。
 八起ビルは信次先生が磁気テープを発明し大もうけしたてたビルと聞いていた。その会社のビルにGLAの東京本部があったのである。


予測しなかった信次先生との出会い私は友人に事前の連絡もしなかった。彼がいなければカセットテープでも買って帰るつもりでいた。彼は事務局にいた。彼は私の顔を見るとすぐに
「おい!信次先生が来ているぞ!といきなり私の腕をつかみ、彼のところに連れて行ったのである。
これは私にとってとても予測できないことであった。何故なら、信次先生は現在入院していて、周りでは「信次先生は自分の予言どおりに48歳で亡くなるのだろうかと」それぞれ心配し落胆していたのである。
 私も早くから東北の霊友に「早く信次先生に直接会いなさい」と言われていたが、「私などが信次先生のお時間を割くには恐れ多い」と遠慮していた。今となってはもはや会うことができないと思い、会うことさえ意識していなかった。それが今目の前にいたのだ。亡くなる3ヶ月前の外泊中であったのである。


観自在菩薩の奇跡観自在菩薩とは過去未来現在を瞬時に見ることのできる人のことである。そして話さなくてもその人の心が見える人。信次先生はまさにそういう人であった。
 彼は私が相談を持ちかける前に「患者の診療にもっと自信を持つこと」「教授のお気に入りだからしっかりやりなさい」と言って励ましてくれた。私は下手に宗教心が強かったので実は卒業後は患者の生死を自分が扱うことにとても緊張感を感じ苦しんでいた。無論多くの若い医師は多かれ少なかれそういうものだが、私はそれで少し鬱状態であったのだ。
 信次先生はそれを自在に読み取り私しか知らない状況のことを話したのである。これには本当に驚いた。さらに彼は私の病気のことにも言及した。
 彼は「あなたは急に心臓が打ち出すのですね!」と私に言った。そうなのだ私はWPWと言う心臓の伝導障害である。高校生のときから、1分間に60回くらいの脈が突然脈が160位になるのである。それは急にまた元に戻り、私は当時はそれで不自由を感じたことはなかっあので、それを誰にも言ったことはなかった。もちろん信次先生がそれをあらかじめ知っているはずも無い。


本当の「手当」ての意味昔の昔その昔、医者の治療は患部に手を当てるだけだった。手当てと言う言葉は本来そこから来ている。
信次先生は私の手をとり「どうですか感じるでしょ」と言いながら私の手のひらにパワー(ここではそう呼ぶことにします)を入れた。
私が「特に感じません」と言うと、少し頭をかしげながら、次に私の左胸を両手で挟みパワー入れた。相変わらず私は何も感じなかったが、何か引き去るような動作をして心臓と思われる手当てを終えた。
「左ひざも悪いね」と彼は言いながら私を応接台のほうに移動させ座らせた。再び彼の両手を私の左足の膝にしばらく当てた後、また両手を引き去るような感じで手を下に引き下ろした。だがしかし、このとき信次先生は応接台でひどく右手を打ってしまい申し訳なかった。
 左膝そのとき症状は無かったのですが、大学生のとき大学構内で原チャリに乗っていて車と衝突してはねられ、身体が空を飛んだことがある。しかし中学生のとき体操部でマットの花と呼ばれており、アスファルトに落ちる直前で首を曲げ込み前方転回、東部打撲の難は逃れたが、回転は右足でも止まらず、次に利き足の左足で思い切り踏ん張ったが叶わず左膝を思いっきり打ってしまった。
 激痛とともに「完全にパテラ(膝蓋骨)が割れたな」と思いつつ大学の救護室に顔が青くなって運ばれたことがあったのです。幸い骨折はありませんでしたが、このときの後遺症が残っている可能性は十分ありました。 続く・・・









農園の石楠花が咲きました。梅雨になる前の石楠花が好き!